あなたが登っている山の、山頂から見える景色はどんな景色ですか?

エッセイ

大人になってからというもの、何かをワクワクしながら、
もしくは純粋に楽しみながらやるという事が本当に出来なくなったものだと
時折考えることがありました。

昔はプラモデルを作っていても
木やダンボールで工作していても
マンガを描いていても
テニスをしていても
ドライブをしていても
バンドをしていても
好きなバンドのライブ映像を見ていても
CDのコレクションをしていても
とにかく身体の中からワクワクがこみ上げてくる感覚がありました。

今は違います。特に大学を卒業して最初に就職した会社を辞めて、
フリーターをしながら音楽活動などをやるようになってから。
本当に好きなことに向かって進み始めたはずなのに。

自分自身でこれまで色々とその原因を考えたりしてきました。
例えば、血気盛んな20代などと比べ歳をとる事で
モチベーションや意欲などは低下してくるからとか、
メンタルが慢性的に疲弊してしまっているからかなとか、
生活の不規則が原因かなとか、
いろんな事を考えて精神的な健康を取り戻そうと考えましたが
そもそもそういう事ではありませんでした。

気付きその①:子供の頃は守ってもらっていた

昔、目の前のことに対して手放しで楽しめたのは、
親に(経済的に)守ってもらっていたから
だと思います。

家に帰れば両親がいてくれて、
ご飯を作ってくれて
洗濯してくれて
お風呂を沸かしてくれて
使った布団は翌日に干してくれていました。
なんの心配もいりませんでした。

学校の部活の事とか、好きな人の事にだけ
悩んでおけば良かったんです。
(当時はそれだって深刻な悩みなのですが・・・)
だから好きな事ややりたい事があればただ心ゆくまで、
それに対して何の心配も不安も邪心もなく打ち込めたんです。

ところがぼくたちは多くの場合、大人になれば自分で稼ぎを得なければならなくなります。
稼ぎというか、とにかく親に守ってもらえなくなる日は必ず来るので、
自分で何かしらのお金を得る方法を作らなければなりません。
人によっては就職ですし、
もしくは起業か、投資か、ネットを使った広告収入か、フリーランスか
上手くやって生活保護をもらう人もいるようですが、
何でも良いのでとにかく絶対に収入が必要です。

自分はそう言った意識に常にとらわれているという事に、最近になって気付きました。
いやもちろん当然というか、大切なことだとは思うのですが、
ただ不器用というか要領を得ないというか。
つまり以前まで趣味で楽しく打ち込んでいた事をやっていても、
「こんな事していて良いのだろうか」
「どうせならインスタで投稿していった方が良いかな」
「これってもっと上手に作ればフリマアプリとかで売れるようになるかな」
などと考えてしまうんです。

具体的には例えば昔大好きだったプラモデル作りをやると、
ぼくの場合こんな風になります。

  • 久しぶりに昔よく作っていたプラモデルをやってみようと思い立つ。
  • 作っていると、「こんな事していて何になるのかな」
    「他にもやらないといけない事が沢山あるな」などと考え始める。
  • 作ったら作ったで、ヤフオクとかで塗装済みのプラモデルが高値で取引されているのに
    気付いたりする。
  • 素人作品でもめちゃくちゃ凄くてビックリすると同時に、
    自分もずっとやってたら稼げるくらいになってたのかなとか考えたりする。
  • 結局せっかく作っても、何も楽しくない。

こんな中途半端な事をするくらいなら、楽しむ時は余計な事は考えずにやるか
それが出来ないなら「本来やるべき」と考えていることをやるしかないですよね。
たいだい上記のような「した方がいい」「しなければならない」からは
結局良いものは何も生まれてこないでしょうし。

大人になって昔のように守ってくれる存在が、代表的なものが会社でしょう。
かなりの時間を拘束されますが、上記の意味で言うある程度の安心や安定をくれます。
これに何の疑問も感じなければ幸せだったかもしれませんが、
「どうして見ず知らずの人(社長)のために情熱を使わなければならないんだろう」と
ぼくは思ってしまったので、大人になってからの過ごしやすい場所からは
出ていくという選択をするしかなくなりました。

個人の性格も大きく影響するとは思いますが、
何かを純粋に楽しむためにはいくつかの条件が満たされる必要があると思います。
そしてその条件は人によって大きく違うし、何を楽しいと感じるかも当然違います。
だから「絶対的な楽しい」はないですよね。
「その人それぞれの楽しい」があって、そしてまた自分自身が選ぶ
自分の身を置く環境も人それぞれなのです。


いったんぼくのスタンスと状況を整理すると、自分の生き方としては
自分の情熱、エネルギーはちゃんと自分に向けて使う
(もしくは他人でもちゃんと納得のいく相手(理念)に対して使う)

その場合安定や安心という側面が大きく削がれ(これは至極当然)、
そしてそこに自分は居心地の良さを感じていない

という事になります。それじゃあただただ人生のサバイバルをしている事に
快感や満足感を感じられるタイプであれば、幸せだったということでしょうか?
それもそうでしょうけれど、ここからとても重要な気付きがありそうです。

気付きその②:自分の登っている山の、山頂からの景色は設定できているか?

歩いているところは危険な道のりで、横は断崖絶壁、いつ崩れ落ちるか分からない。
足場ももちろん悪いし、草木もまばらにしか生えておらず石や岩ばかり。

ぼくが感じていることって、その様な険しい道を進んでいる登山家の人に
「そんな所を歩いていて何が楽しいのですか?」と
聞いているようなものじゃないでしょうか。

そう考えれば、全くもって愚問であることが分かります。
そうです。その登山家にとって大切なことは、頂上まで登ること。
ただ実際の山と違って人生という山は、その高さも、見える景色も
自分で決めてしまえるというところです。

今登ろうとしている山。登っている途中の山。
その頂上から見える景色は圧巻の壮大な絶景が広がっているとするのか、
自分が住んでいる街を見下ろせる程度とするのか、
全部自分次第なんです。
これはかなり重要なことだと思います。

あなたが見下ろそうとしている景色は、どんな景色だろうか?
ため息が出るような、かつ人工的な美しさを感じたい?
圧倒的な開放感を感じたい?
よく考えてみると、とても狭い視野になっていない?
広くなっただけで、結局檻の中、なんて事はない?
しかし見方を変えてみると発見があるかも

ネガティブな人や自身のない人が人生の山登りをすると、
山頂の景色をあまり素敵な景色に設定出来ないのではないでしょうか。
斯く言うぼくもどちらかと言えばそっちです。いや完全にそっちかも。
しかしそれでは山には登れませんよね。
「あの山の山頂に立つ。」「あの山を制覇する。」「そして最高の絶景を拝んでやる。」
そこに使命感さえ感じる事が出来るからこそどんな悪路でも突き進み、
時には命の危険にだって晒せるのではないでしょうか。
そう、全ては山頂に立つためただその一点のみ。
その山頂にある価値が他人にとってどうかなど、全くどうでも良い話のはずです。

こういう考え方で一番初めの話に戻ってみると、
大人になった今、目先のワクワクはどうでもよくなってこないでしょうか。
もう自分で登山に必要な道具を準備出来ます。
何が必要かも調べることが出来ます。
助けが必要となれば求めることが出来ます。
その山が登るべきかどうか判断するというよりは
登る価値のある山にしてしまう事が出来ます。

もちろん子供の頃に楽しんでいたように、何かに夢中になれれば最高です。
ただぼくたち大人には、もっと高次のワクワクを体感出来る力があるはず。
あなたが、そしてぼくが登っている山の頂上から見る景色は
いったいどんな景色でしょうか。

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