サービスを消費する社会から、次はどこへ

エッセイ

初めて服を手洗いしました。
具体的には冬物のニットと上着。
今までは家のすぐ近くのクリーニング屋さんに出してたんですが
そこが数年前に無くなってしまったからです。

新しくクリーニング屋さんを探すのは面倒くさい。
見つけたとしてもお店まで、かさばる服を持っていくのも面倒くさい。
そんな性格なので上着は去年は結局洗わず、
例えばマフラーなんかは洗濯機で回しました。

しかし今回、一念発起してついに洗濯を敢行。
クリーニングではなく自宅で、それも洗濯機は使わずに、キチンと手洗いをしました。
その結果、多分一番綺麗になったのは自分のココロでした。




身の回りのものをちゃんと手入れする。
綺麗にして整える。
あるべき状態にしておく。
「丁寧な暮らし」などと言う言葉が暫く前から言われるようになっていますが、
自分の身の周りを自分で整えるって、
めちゃくちゃ大切だなと感じました。

昨今の、「生産性」という言葉が好きな人たちは
家事などの雑務は人やサービスに委託し、自分は自分のすべき事、
自分にしか出来ない事に注力しようと言います。

「ご飯は外食や宅配で済まして、洗い物などの手間を省こう。」
「掃除などは家事代行サービスを利用しよう。数千円で自分の時間が買える時代だ。」
「そもそもホテル暮らしにすれば、身の回りの整理整頓は完璧にやってもらえる。」

といった具合の考え方ですね。
そうは言ってもそんな事なかなか出来ない・・・というサラリーマンの人でも、
例えばワイシャツは毎回クリーニングに出して洗濯しているという人は
多いんじゃないでしょうか。
アイロンもかけられた状態で返って来ますしね。

確かに非常に理に叶っていて一見合理的ですが、
ぼくは警鐘を鳴らしたくなります。
その先に幸せや充実は果たしてあるのでしょうか。

そもそも「合理的」とは目的が明確になっていて初めて出来る話ですが、
自分自身の目的は明確なのでしょうか?
東京へ早く行きたいと決まっているから、
車よりも電車、普通の電車よりも新幹線が良い、と言う話が出来ますよね。

目的によっては、これが一番合理的な場合だってあります

有名なインフルエンサーの方たちはお勧めの生活スタイルを
様々な媒体を通してぼくたちに教えてくれたりしますが、
そのスタイルは彼らの性格や目的の達成において最適であっただけで
それを鵜呑みにしてとにかく実践すると言うのも、
何がしたいのか分からない状態と言えるかもしれません。


少し話がそれたのでもう一度戻しますと、
自分の身の回りのことを自分で整えると言う事は非常に大切で、
とても価値のある事だということを感じたのです。
自分の服を丁寧に手洗いした事によって。

それは仏教の、「行」の考え方からも言えると思います。
お寺で修行僧の食事を作っている人は、一度も読経をしていなくても
読経をした人と同じ位を与えられるそうです。
それくらい暮らしの中の「行」は大切なのですね。

本当にたくさんのサービスが生まれてきました。
食べ物を届けてくれる。
ご飯を作っておいてくれる。
代わりに掃除をしてくれる。
洗濯をしてアイロンをかけてくれる。
代わりに買い物に行ってくれる。
生鮮食品でも何でも、どんなものでも家まで配達してくれる。
靴を磨いてくれる。

とにかく便利なサービスが溢れている現代ですが、
代わりに何か非常に重要なものを、
かなり失ってしまっているように思えます。
ぼくたちのココロは、豊かでしょうか?


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