仕事が出来ないってそんなにダメなことなのか

エッセイ

大昔、まだ人間が狩りをしていた頃なら、
うさぎしか捕まえられない人かマンモスを捕まえられる人かなら
間違いなくマンモスを捕まえられる人の方が偉かったでしょう。
力も勇気も度胸もあっただろうし、知恵も必要だったろうし、
それ以前に獲物を捕まえることが出来るかどうかは死活問題です。
自分たちの生死、そして子孫を残す、これらが出来るか出来ないかは
何においても重大なことです。

現代は命をかけなくても、食料が簡単に手に入るようになりました。
その代わりにその人の力を計るバロメータになっているのが、お金という訳です。
たくさんお金を稼いで帰ってくる人がもてはやされるという話は納得がいきます。

では例えば、食料を獲ってこれない人はあしでまといで邪魔なので、
いない方が良いのでしょうか。
邪魔だったとしても消えてもらうわけにもいかないので、
その代わりに無碍にあしらったり礼節を欠いた対応をしても許されるのでしょうか。

確かに昨今、何に対しても人権がどうだとか特別扱いするなとか
アルファベットをいろいろ並べて語る風潮をよく見かけます。
またいつの間にか言論の自由が行き過ぎて、
とにかく声の大きなひと、立場が弱く失うものの無いひとが
一見生き易いような世の中になって来たと感じます。

よく分からない価値観や同調圧力で弱いものが守られる感じになっていますが、
生物の世界では間違いなく弱いものから先に死にます。
病気で死んだり、敵に真っ先に襲われて死にます。
また遺伝子のエラーを良しとしていては、種の存続に影響が出ると判断するでしょう。

それが人間世界では、モラルや道徳などといって守ります。
だから極論、そんな人間は淘汰されるべき、
能力の低い人、能力が落ちた人、生物として正常な遺伝子を残せない人などは
いなくなるべきという暴論を唱える人は、あってもおかしくはないと思います。

しかし、これはやはり間違いでしょう。
今回は仕事現場での話なので路線を戻すと、
仕事の出来不出来で人間性まで否定するのは違うと思うのです。
理由はシンプルで、その人を傷つけるから。

例えば路駐している車に対して、罰として傷を付けた人がいれば
その付けた人が罰せられます。
全く別の問題だからです。
それと同じで、暴力や言葉による暴力を浴びせる理由は如何なる場合においても
有るはずがないと思うのです。
出来ない人がいたら手伝おう、困っている人がいたら助けよう。
自分たちは確かに子供の頃にこうやって教わってきたのに、
それは間違いだったのでしょうか。
もしくは、「この場合は別」なのでしょうか。

だいいち、全ての能力を計った上で評価出来る人なんて
この世にいないじゃないですか。
その人の生い立ちから今に至るまで。人生観、価値観、仕事観、得意不得意、
それらを実はろくに知らない状態で、ほんの一面だけを見て決め付けていると言う事が
よくあるのではないでしょうか。

仕事だからちゃんとして貰わないと困る、と言った話も聞きますが、
まあそれはあなたの力量不足ですねとしか事実言い様がないと思っています。

ぼくは仕事が出来る人よりも、優しい人の方が好きです。
食えないかもしれないけれど、そっちの方が良いです。
だいたいこんな事を思考している時点で、おかしい事だと思います。
倒れている人がいた時に、
駆け寄るべきか寄らないべきか考えるのでしょうか。
そんな事を考えるなら、それは「人間らしくない」ですよね。

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